高千穂丸慰霊碑

memorial monument

田中秀文/
平和のいしぶみ/
高千穂丸遭難記/
平成14年

著者のご了解を戴いて転載しております

慰霊碑は三重県津市にあります.津新町駅から徒歩15分
慰霊碑
私が碑を建てる事を聞き電話で泣いて喜ばれた岐阜の方、又、弟はどうして死んだのかと私方に(私の計画を応援して戴いている井村さん)に、聞いてこられた名古屋の谷川さん、ずーと弟さんの「冥福」を毎日仏さんにおがんで居られるやさしいお心の兄弟愛。そんな遺族の方は多いのではないかと思います。
BACK 碑を建てるに至った理由
私が九死に一生を得た昭和十八年三月十九日の遭難の日の事は忘れようにも忘れられないのです。
敗戦で引揚船にて昭杓二十一年四月初め津に帰って見れば我が家は戦災で無くなって居り母は病死したとか。妹一人雨つゆがしのげる小屋で難民生活をして居りまして

私も妹と共に二年余りは、お米の御飯を食べたことのない生活でした。我が家の復興の為に必死に働きました。
三月十九日が来ると、自分は三月十九日で死んで、生まれ変わったと思い何事も達威出来る元気な力を戴いたのです。
そのおかげでどうにか人並みの暮らしが出来るようになり感謝して居ります。
けれども生存者として無念の死をとげられた方を弔いたい、慰霊碑を建てて拝みたいと思いつつ決断に至りませんでした。
三年前に難病とされた首と腰の病にて寝たきりとなり近所の人からも明日は鐘をたたくとうわさされる死の状態にあったのですが、奇跡的に回復に向いました。これも高千穂丸で亡くなられた方々が、私に命を下さったのではと思い、碑を今度こそは、建てようと決心し、建てました。
長年の思いがかない、碑を建てる事が出来うれしいです。
犠牲になられた方の鎮魂を願い、心ある方々と共に現在は平和の有難さを『かみしめ』二度と戦争のない世をつくり上げたいと思います。
『どうしても若い人がうけついで戴きたいのです』
平成十四年三月十九日がまいりますと、私も満八十四歳になるからです。(このお基は中の会が世話をし私の同級生でもある原氏は心をくばってくれて有難う)
此の中の霊苑の東隣に御住まいの倉田様がお基の管理をして戴いて居り、高千穂慰霊碑も大切にしたいと申され昨年十一月十二日碑が完成以来お花なども上げて戴きお心のやさしさに感動感謝致して居り、又墓地の方々も大変に理解御協力をいただいており、見知らぬ方々よりも日本の将来をお考え戴き温かい御心をたまわり、嬉しく感謝して居ります。
平成十四年元旦/生存者田中秀文

存在しない乗客名簿
碑を建てるにつき、商船三井さんより高千穂丸遭難の資料を送って戴きました。
船員さんの氏名はわかっていて慰霊されて居るが、民間のお客さんの氏名は不明との事にて、資料はありませんでした。
軍人さんとか船員さんは靖国神社に祭られて居ります。(商船三井さんも此の戦争の為に大損害を受けたのであります)・
戦争中であり仕方がなかった災難に遭遇したと我々は思っているのです。
現代でしたらどうでしょう「乗客名簿」も無い、補償も無いとしたらどうなりますか。
民間人は戦争の為に『ぐち一つも言わず』、無念の思いで悲しい最後を遂げられました。其の方々の土台があったからこそ現代があると我々国民は感謝を忘れてはならないと、申し上げます。(この項おわり)